NEKO_SuperNyanko

個人ゲーム開発ブログ

VRChat+アバターの文化は深い

3Dアバターの制作方法を勉強していると色々勉強になる

本記事は ”「理解できない」相手が「理解できる前提」で説明要求してくるのを相手するのはいつだって気が重いよね!” という共感を書いていてるだけなのですが、ボイチェン美少女という唐突な話になる部分もあるため、まずは前置き。

3Dアバターでアニメ風の美少女制作は面倒くさい。Blender?Unity?VRM形式?そんなの意識せずパパっと3D美少女を作成しカスタマイズしたい!って方法を調べていたらVRoidというツール等で作ったVRM形式モデルデータを改造する方法を知った。

通常は、改造にBlenderやUnityなど必要なのだが「Unity不要にするツール作った人」がおられて、その方( 120氏 )はVRChatでボイチェン美少女として活動されていたが、彼には「ボイチェン美少女であるからにはボイチェン美少女とのみ交流したい」という鉄の意志があり、「信念なく3D美少女で男子声」との交流を避けていたら強めのクレームがあった...というのが前置き

 

「仮想現実がピンと来ない人たち」と「ボイチェン美少女」の衝突

VRChat勢って還暦超えたご高齢の方でもボイチェン美少女やっていたりするので(SNSでQuest3買ったぞ!って喜んでる方を見かけた)多様性には寛容と勝手に思っていたんだが、どんなコミュニティでも自分だけの価値観で理解できないものは全拒否(とりあえず怒り始めて説明を迫る=世の中に理解できないものはないと思い込んでる)みたいな人はいるんだなーとがっかりした。

 

※がっかりしたのは、「なんでも説明されれば理解できると思いこんでいる人たち」の「説明要求」にであり、恐らく説明されても理解できんであろう人にも、自身のアバター運用ポリシーを誠実に説明をされているボイチェン美少女の方( 120氏 )に対してではない。

 

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「信念をもって喋らない」という選択の難しさ

私も正直言ってボイチェン美少女そのものに執着や強いこだわりを持っていない。現在進行形でゲーム開発の過程で美少女モデルは制作しているが信念とかあまりない。

なので私自身には「よし、ボイチェン美少女としか話さん」みたいな決意はないけど「キャラクターを作ったからには、世界観的にそういう人もいるっしょ」と思う。思うが、そこから先の世界は理解の範囲外である。どんな世界観で沈黙を保つのかとか知ったこっちゃない。日本語に言語化してもらったところで理解できるとも思わない。なぜなら、私は「自分がそういう世界観を持たない」からだ。

でも、「説明されれば分かるから説明しろ」と主張する人が必ずどんなコミュニティにもいる。

なんで「説明されれば理解できる」と思っちゃうか、私には理解不能なのだが、まあ、理解できないことを経験したことがない、理解せずに呆れられていることに自覚がない鈍感な人か、「ああ、自分の知覚領域・価値観には限界があるんだ」とハッとしたことがないのだろう。このパターンの相手はしんどい。

 

説明されれば何でも理解できる?そんなはずはない

VRChatに限らないが、どんな場所でも自分を全知全能の前提で考える人がいる。

聡明な人は、理解できない行動をとっている人がいるとき、迷惑でなければ「何か理由があるのだろう」と考える。そして「説明しても分からない事情なのかもしれない」と仮説を立てて、事を荒げない。守備範囲の限界を知っているからだ。

しかし、「全知全能」前提で説明しろと短絡的に言う人は、「話し合えば分かる!」とか「何で何も言わないんだ!言わないと分からないだろ!(説明されれば絶対に理解できるんだ!)」と暴れる。

そういう人が暴れて周りへなんでも説明するよう要求する光景を見ると、毎度毎度、思い上がりもいいところだ、と舌打ちせずにはいられない。「理解だと?理解とは概ね願望に基づくものだ」(映画イノセンスのセリフ)を思い出してしまう。

 

限界を知らない乱暴な人とどう向き合うか?

私はボイチェン美少女への信念とかは無いのだが、人に理解されない価値観や方向性で叩かれることは何度か経験してきたので、「理解の外を想定できない人の狼藉」はどう向き合うべきか、「説明を求める声」に押されている人を見かけると、ついつい自分ならどうするかなと考えてしまう。

「理解できない」相手に説明するのはいつだって気が重い。

例えば…50万近いPCで仕事でもないのにゲーム開発を趣味でしている、なんてのを全く理解できない人は存在する。

そんなものにお金と時間を使って!もっと人の役に立つことや有意義なことを云々...「その有意義って誰の定義?」となるのだけど、まあ、そういう批判を受け続けながら「へへ、すいませんね、あっしはちょっと変わり者でして」とニチャアとした薄ら笑いを浮かべながら帽子を深く被って申し訳なさそうに、そそくさと隅っこに行かないといけない時、とても深いため息が出る。

 

人は理解できないものを時に破壊的に妨害する

30年以上前、私が小学生の頃、休憩時間にもっと早くプログラムコードを打てるようブラインドタッチを覚えるために、キーボード配列を印刷し、その用紙を叩いてタイピング練習をしていたことがある。なるほど、奇妙だ。当時はゲームボーイファミコンが全盛期で田舎の私の町でパソコンを持っている家庭は少なくともクラスにはいなかった。多くの家庭は自衛隊や農家で、ご両親がコンピューターをわざわざ買う家庭などいない田舎町でWindowsもない時代だった。つまりPCは高級品で知らない子の方が多かった。

私の家庭もPCを貸してくれる親族がいただけで実家は所有はしていなかった。つまり「限られた時間で多くのタイピングをこなし、プログラムコードを試すチャンスを増やすこと」が当時の私は最重要タスクであった。少なくとも授業を妨害したり、誰かの物を盗んだり、壊すこともないので鬼ごっこやゲーム攻略を話し合う子達との時間よりも有意義でベストな時間の過ごし方のつもりだった。

しかし、理解できないクラスメイトたちは「変なことをしている・遊びのメンバーが不足する」そんな理由で、私に嫌がらせをしてきた。

私は有象無象の田舎の子供達との思い出より、返却期限が迫る高価なパソコンでプログラムコードを1行でも多く書けるようになるほうが重要であった。

そのため、私に奇妙なタイピング練習に対していたずらする子たちへの抗議をせず無視をした。無視することでイラズラはエスカレートし、暴力にまで発展し、喧嘩になった。

喧嘩になれば教師の出番である。最終的に、教師はため息をつきながら「学校で変なことをするな」と私を叱ったのである。私の価値観は理解されなかった。仕方ないので、私は風邪を引いたことにし、結局サボって実家でPCを触った。

 

さて30年が経過し、風の噂では、今や同年代の元クラスメイトの子供たちもプログラマに憧れ、タイピング練習したり学校でもタブレットで授業に励み、親たちは若いころから英才教育をと、プログラムの塾など探したりするようだ。

その親になった元クラスメイトたちは昔の、奇妙な紙に印刷したキーボード配列でタイピング練習をしていた私のことを果たして覚えているのだろうか。自分たちの町で使う何気ない公共機関のシステムがもしかすると私が設計や開発したコードの一部が動いているかもしれないときっと夢にも思わないのだろう。

想像できないとは、そういうことなのだ。知らないものを人は理解できない。理解できないから勝手に憧れたり目標にしたり、想像で批評するのだ。説明されても理解できないのに。

 

分かり合えるなんて幻想は捨てよう。人は誰しも自分の周囲30cmで生きている

私は誰とでも理解し合い、誰とでも仲良くできる、そんなのはファンタジーだしそうした世界観が「嘘だ、気持ち悪い幻想だ」と眉間に皺を寄せるタイプだ。

自分の経験もあるが、そもそも人に理解されなかった「早すぎるテクノロジー」が開発者の死後に脚光を浴びたり、論文が何十年先になって評価されたとか聞く度に、人なんて元より他人は愚か「せいぜい周囲30cmしか理解しない」と思ってる。

だからといって、社会を拒絶し世捨て人になったり、独りよがりなソフトウェア開発なんてもってのほかなので仕事では「理解はしなくていいですから、このボタンを押してください」と「ボタンが1つしかない」UIでいつも開発している。

時々もっといろいろなことがしたいなんて声を聞くが対応しない。あらゆる選択肢を用意したところで機能の全貌を理解できると思えず、返ってトラブルが起きると思うからだ。iPhoneの昔のホームボタンのように「選択させない/選択肢がない」ことは、およそ分かり合えない相手との無駄な説明を省略する、有効なコミュニケーション方法の最適解の一つだと思う。相手には応じる/拒否するの2択で良い。「分かったかも」「少し分かる」みたいな中間はいらない。

 

まとめ(私の個人的な主張)

人は誰であれ「説明されたら理解できる」という根拠のない自信をまずは捨てるべきである。人は自分の知っているものでしか物事を評価できず、また理解しない。この点で悪意だとか善意などの感情は関係なく、理解したくても理解できないのだ。

 

海の向こう、対岸に等しい距離の世界を理解するには、その前提に積みあがっている膨大な「知らない世界の常識」をまず知っていかなければいけない。それが理解できるような人は最初から「説明しろ、話せば解る」とは言わない。それが時間を要し、例え時間をかけても理解しきれない可能性があることを知っているからである。

 

この点を一人でも多くの人が意識し、前提条件にすれば、誰でも謙虚になれる。理解できないことへ破壊と暴力ではなく、座って考えるところからアプローチすることができる。

 

そうすれば、ほんの少しかもしれないけど、世界をもっと驚きと発見に満ちた広さがあることに、誰でも気づけるはずだ。